誰のためのデザイン?という書籍は私のデザインの概念をいい意味で覆した書籍です。
誰しも誰かに影響を受けたり、インスパイアされていると思うのですが、私の場合はこの書籍の影響はとても大きかったと言えます。
書籍の中でADノーマンはドアノブのデザインやドアそのもののデザインについて考察しています。
誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論
私たちは、あらゆる場所でドアと遭遇します。
無数に近いドアがこの世には存在すると思いますが、時折開け方のわからない、あるいはわかりにくいドアと出会うことがあります。
そんな時、「開け方がわからない自分が悪い・・・」と無意識に感じているのは私だけではないと思います。
逆に開け方のわからないドアを足蹴りする人もいるかも知れませんが、器物破損などやっかいなことにもなりかねないので、多くの人は開け方がわからず苦笑いするのではないでしょうか?
ADノーマンの書籍の写真をアウトライン化して説明してみましょう。

上図の様なドアの例えをADノーマンはデザインが悪いと言っています。
この左のドアは「引く」右のドアは「押す」と英語で書いてあります。私も英語の「PULL」と「PUSH」はとても間違いやすい紛らわしいスペルだと思います。頭文字の「PU」が両方とも同じだからです。
私たちの生活に密接に関わっているドアのデザイン。
それはレストランでも病院でもいろんなドアと遭遇し、また紛らわしいデザインや悪いデザインに翻弄されています。。
実は、これらは全てデザインが悪いと思っています。
なぜなら、デザインという概念を考察する上で、人間の理解力が乏しいからだとか、頭が悪いからだとか、使い方を知らないからだとか、もしドアの開け方がわかりにくい時全てが使う側の人間の能力によって、良かったり悪かったりするとなれば、デザインが進化することは永遠にないと思うからです。
ですからそのような時には、デザインが悪い?と疑問符をつけましょう。そしてではどういうデザインにすれば能力に関係なく、才能や経験値に関係なくまた、国籍に関係なく使いやすいデザインのドアが産まれるのでしょうか?と考えることから進化への無限の道が開けると思うのです。

人間と機械のコラボレーションで進化する人間社会のイメージ画像
ADノーマンは「シグニファイア」と「アフォーダンス」に分けて考察しています。
このドアに「シグニファイア」つまりシグナルが無かったら?どれだけの人が「押す」ドアを引いたり、「引く」ドアを押すか想像に難くないでしょう。
ドアというのは一つの象徴ですが、私たちの身の回りのもの全てに対してドアノブの例えは共通して言える事では無いでしょうか?
ドアの例えで言うとシグナルがなくてもデザインで「押す」か「引く」かわかる様にする事が望ましいわけです。
デザインが悪い場合は、得てして体験を通して知ることになります。
経験することで間違いを通して、あるいは成功体験を通して認知していく、覚えていくことになりますが、そう言う経験を必要とすること自体はデザインが悪いと言えるかも知れません。
もう一つの悪いデザインのドアの例えをご覧ください。

上図の中央がドアです。シグナルとなるものも何もありません。ADノーマンはこう言っています。
「目に見えるシグニファイアもアフォーダンスもない。どちらの側を押すのか、どうやってわかるだろう?やってみなければ分からない。ドアの様に簡単なものに、外的シグニファイア、つまりサインをつけなければならないと言うのは、悪いデザインだと言うことを示しているのである。」
誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論
と・・・そしてこのドアは下図の様に開くドアでした。

このように悪いデザインはドアという性質であるにも関わらず、ドアノブも無い、取手も無い、サインやシグナルも無い、このようなドアは誰の為にデザインされたのであろうか?
そこに愛はあるのかい?
私はそう言いたくなります。
やはり良いデザインとなる為には、あらゆる想定の元、見た目の美しさ+機能的な優秀さ+愛が込められていること。ではないでしょうか?
話は変わりますが、最近高齢者の事故でブレーキとアクセルを間違う問題が多発していますが、個人的見解として実はあれもデザインが悪いのではないかと私は思っています。
なぜなら長年の習慣でオートマティックで右足はブレーキとアクセルを使い分けていますが、どうして同じ場所に同じ様なデザインの装置をつけなければならないのでしょうか?
そしてウィンカーのように左右を間違う程度ならすぐにサインによって修正が効きますが、アクセルとブレーキを間違えると一瞬のうちに大惨事を引き起こすと言うのに、今のデザインのまま何十年、いや何百年変わらなくても良いのでしょうか?
変えようともしないこと自体に問題を感じてしまいます。
ある操作している時に、悪いことが起きたら操作する人間が全て悪い?
操作ミスは人的問題?
じゃ、デザインは悪くないの?

なぜ変わらないのか?
確かに人は習慣を変えることを煩わしく思うことがあります。
まして高齢になると余計そうかも知れません。
しかしこれだけ社会問題になっているのに、高齢だから・・・との理由で免許証の更新システムを厳しくしたり、年齢制限したりしていますが、つい先日57歳のタクシードライバーがアクセルとブレーキを踏み違えて大きな事故を起こしていました。
57歳です。高齢ですか?タクシーの運転手です。技能に問題あったと思いますか?
これからの時代は高齢者でもアクセルとブレーキを間違えない車のデザインが求められていると言うのに、高齢者向けのスマホにはご熱心であるのに、命に関わるカーデザインの方はAI任せで、これまたバグだらけの問題アリアリの様です。
命に関わる判断はやはり人間中心のデザインであるべきであり、高齢者が安心して車に乗れる、生涯現役で運転ができるカーデザインを日本人が率先して開発するべきです。
ウィンカーを左右間違えることがあっても、視界に反対側のウィンカー矢印が出ていますので、気が付きやすいデザインになっています。
またカチカチという音もシグナルとなり、曲がる予定もないところでカチカチと音が出ていたらウィンカーがついていると認識しやすデザインとなっています。
なのになぜ、アクセルとブレーキのデザインについて、配置している場所や似たような形について誰も疑問に思わないのでしょうか?それはアクセルとブレーキを間違えた人間が悪いと思い込んでいる車のメーカーやメディアや言論人たちがいるからではないでしょうか?
そう、だから誰かが言わなければならないのです。
アクセルとブレーキを間違えるのは車のデザインが悪いからだと・・・
そして世界中の高齢者に夢と希望を与えて行くべきでは無いでしょうか?
私は本気でそう思います。
まとめ
世界市場で、スマホやパソコンにおいて日本のデザインや性能は、はっきり言って後手後手に回っているように思います。
しかし一時期は車市場を席巻するほど優れた機能を日本人は開発していました。
全ては「かくあるべし」と言う理想から始まると思うのです。
そうあって欲しいと願うものであります。
