誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論
この誰のためのデザインはデザインを考えていく上で非常に参考になると思います。
MIT教授のエリック・ブリニュルフソンは、全米技術アカデミー学会の席で次のように説明しました。
今日の世界最強のチェスプレイヤーはコンピューターでも人間でもなく、人間とコンピューターが一体となったチームです。
フリースタイルのチェス競技では、人間っとコンピューターからなるチームが競い合うが、勝者は最も強力なコンピューターを持つチームや、最強のチェスプレイヤーがいるチームでは無いことが多いようです。
勝つのは、コンピューターと人間のユニークなスキルを一緒に働かせることができるチームであります。
つまり、価値を創造する新しいやり方で、人とテクノロジーを共に働かせると言うことであると思います。

私は、この説明を聞いてとても嬉しい気分になりました。
なぜなら機械と競争するのではなく、共存することが最も成果を生んだと言う結論に対してハッピーな気分になったのです。
よくあるSF映画のように、機械VS人間と言う構図が本当に来るべき未来の姿なら、私たちの未来は暗い悲しいものにしかなりません。
どれだけ人間と機械が進化していっても、両者は助け合い、補助し合う関係であり、最終的な目的は人間を幸福にするための手段であれば理想的なことだと思います。いやそうあるべきでしょう。
私はコンピュータが好きだし、コンピューターを使ってデザインすることが好きです。
それは自分のイマジネーションを表現する道具として好きなわけで、全てをコンピューターに代行してもらうことが目的ではありません。
そう、機械と人間が対決する構造があまり好きではありません。
もちろん競争の原理というものがありますので、機械と人間が切磋琢磨し、優れたものを競争しながら作り上げていく。
そして機械が優れている部分においては機械に任せ、人間でしかできない付加価値の高い仕事は人間が担っていくことは素晴らしいと考えています。
あくまでも目的は人が人を幸せにするためであって、その目的を遂行するために道具としての機械があるというのは理解できます。
それは機械と人間が共存する理想的な世界に一歩近づいていくであろうと思うのです。
しかし、どういう人間がどういう目的で、その機会を操作しているのか?が問われる時代になってきているように思います。
まとめ
機械と人間の関係は、詰まるところどういう人間がどういう思いでそれを為そうとしているのか?
そういう意味ではずばり人間性や人格と言った数値化できない、あるいは学校教育や社会で評価の対象とならない計り得ないものが大事になっていると言うことだと思います。
数値化できないものなので、評価する人の主観で判断されるものであろうかと思うのですが、そう言うものがあると言うことは誰も否定できないのではないでしょうか?
人格が崩壊すると犯罪者となることはわかりやすい例えだと思います。
しかし人格を磨くとどうなるのでしょう?
磨いた人はどのように変化し、また第三者から評価の対象となるのでしょうか?
金属なら磨けば光りますので、とても明確に評価しやすいのですが・・・
それでも人格というものがあり、人格者が機械を操り、機械と共同作業をして世に還元してくような世界が望ましいと思います。
皆さんはどう思いますか?